軽便鉄模アンテナ雑記帳

軽便鉄模アンテナ管理人(うかい)の雑記帳です。ナローゲージ鉄道模型の話題が主

軽便鉄模アンケート2008・分析編3(年齢)

先月実施した「軽便鉄模アンケート2008」の集計と分析。第3回目はナローゲージャーの年齢についてです。

Q7:あなたの年齢は?

何故か皆無の第二次ベビーブーム層

★今回回答して下さった方の年齢(一部推定も含む)は、以下の通りでした。

  • 20代 1名
  • 30代 3名
  • 40代 14名
  • 50代 7名
  • 60代 3名

40台が一番多いですね。1名だけですが、20代の方がおられるのは心強い限りです。30代も3名おられますが、その3名の方は、いずれも38歳と39歳。つまり30〜37歳の方は一人もいなかったという事になります。もともとその世代の人口が少ないのかと考え、統計局ホームページにある人口推計の表と見比べてみました(平成19年10月現在のデータなので、丁度1年前である事に注意)
統計局ホームページ/人口推計/平成19年10月1日現在推計人口 ‐ 全国:年齢(各歳),男女別人口 ・ 都道府県:年齢(5歳階級),男女別人口 ‐
上のリンク先のページにある人口ピラミッドを見ると、以下のようなことが分かります。

  • 59〜61歳 昭和22〜24年の第1次ベビーブームで人口が多い
  • 42歳   昭和41年(ひのえうま)の出生減で人口が少ない
  • 34〜37歳 昭和46年〜49年の第2次ベビーブームで人口が多い

★私の周囲のナローゲージャーには昭和43年前後生まれ(現在40前後)の方がやたらと多いのです。てっきりその世代の人口が元々多いのかと思っていましたが、実際はその下の現在34歳〜37歳の人口の方が多かったのです。ところが、その多い筈の年齢の方が今回の回答者に全然いないというのはどうした事でしょうか? 今回のアンケートの回答者の方がたまたまそうであった・・・と思う方もいるでしょうが、ネット上でなくリアルでお付き合いのあるナローゲージャーの方々を見渡しても、39〜40歳の人が一杯いて、その下の年齢の方がプッツリと切れたように殆どいないのです。*1何故そうなのでしょうか?
推論その1・ロコより仕事(っていうか生活)
今39〜40歳位の人は、バブル崩壊する寸前の空前の売り手市場の中で就職できたのです。ところがその下の世代はバブル崩壊後で就職が厳しくなりました。就職できても条件の悪い仕事だったり、非正規雇用*2だったりして、模型どころではなくなったのでは?
推論その2・すべてがNになる
1976年にトミックスが発売されたあたりから入門者の大半がNゲージとなりました*3。おそらく今の40位の人は、実際に鉄道模型に入門したのがNゲージからであったとしても、「HOにするかNにするか」迷った最後の世代であったと思います。その後の世代の人はもはや迷う事もなく、Nゲージにしか興味がなく、当然ナローもNゲージでないから興味がないのでは?
推論その3・ナローならではの事情?
しかし16番の世界では、30〜37歳の方がそれなりにいる様です。先日発売の「鉄道模型趣味」誌(以下TMSと略)2008年12月号のTMSコンペ2008の入賞発表*4を見ても、それは裏付けられます。漸減するならともかく、突然ぷっつりと切れたように38歳以下がいないのは、やはりナローゲージ模型界独自のなんらかの理由があるのでは?と思います。その理由は何なのでしょうか?

軽便鉄模史から理由を探る

夏の時代と冬の時代

★日本のナロー模型の歴史を振り返ると、1965年にHOナローの嚆矢であるエガーバーンが輸入。1966年にHOナローレイアウト「祖師谷軽便鉄道」の発表記事がTMS誌で連載。1973年にダックスストーリー連載/ダックス発売。1974年にPECOバリキットがTMSにより輸入開始。1975年に乗工社設立/コッペル発売。1976年には第1回「軽便祭」開催*5。1977年に組立簡単で廉価な乗工社プラフレームシリーズ*6の第一弾であるポーター亀の子が発売・・・と、1960年代半ばに着火し、1970年代になって87分署の活躍と珊瑚/乗工社製品の発売によってメラメラと燃え上がったのです。TMSのナロー関連記事を集めた単行本「ナローゲージモデリング」が発行されたり、いさみやからトミーのNゲージCタンクを使う雨宮タイプのホワイトメタルキット*7が出たりもしましたし、87分署が「子供の科学」に入門記事を書いた事もあったのです。
★ところが1981年に異変が起こります。乗工社の広告がTMS誌から消え、製品紹介にも同社製品が登場しなくなります*8。代わりに「とれいん」誌に広告や乗工社自身による記事が出るようになり、さらには1983年に「とれいん」誌が提唱した「HO1067」*9(1/87 12mmゲージ)に賛同し12ミリゲージ製品を発売*10。しかし間もなく「とれいん」編集部と仲違い?して、今度は新たに創刊された「Rail Magazine」(以下レイルマガジンと表記)*11誌に移動するのです*12。この時には乗工社製品は問屋流通はされておらず、通販による直接販売のみ。しかも広告はRM誌だけに掲載されており*13、それも間もなく消えてしまったのです。同じ頃、ナローの下回りに重宝されていたトミーの香港製CタンクとCディーゼル*14もカタログ落ちして市場から消えてしまい、いさみやのナローシリーズはこれで息の根を止められてしまいました。
★だらだらと書いてきましたが、要は1973年から1981年頃が日本のナローゲージモデルが盛り上がった時代であり、1982年頃から乗工社が日本型製品を復活させる1990年頃までは、それまでと打って変わって「ナロー冬の時代」、大げさに言えば「氷河期」であったという事です。
★この時代は製品のみならず、ファンの側の活動も低調であったと言えるでしょう。いくつか優れた車輌やレイアウトも発表はされましたが、それ以前の時代に比べると格段に減ったような記憶と印象があります*15。これについては当時の雑誌のインデックスを元に統計を出してみないと裏付けられませんが、当時を経験されている皆さん、どうお感じでしょうか?

氷河期がアラサーナローゲージャーを絶滅させた?!

★さて、ナロー界に一杯いる39〜40歳ですが、昭和43(1968)年生まれの今年40歳*16の人が、感受性が豊かであろう十代前半(10〜14歳とします)であったのは1978〜1982年。つまりポーター亀の子や加藤型DLが発売され、第2回軽便祭が開催され、ナローが盛り上がっていた時代なのです。
45歳の人だと、十代前半であったのは1973〜1977年。ダックスストーリーが連載され、乗工社からコッペルが発売され、第1回軽便祭が開催され・・・と、これまたナローが盛り上がっていた時代です。
ところが、本来第2次ベビーブームで人口が多いはずの35歳前後の人はどうでしょう? 今年35歳の人が十代前半であったのは1983年〜1987年。上で書いた「ナロー冬の時代」の真っ只中ではありませんか! 
★子供の頃にナローの製品を広告や店頭で眺めたり、いろいろな人のナローのレイアウトや車輌作品を雑誌で見て感動したりした経験が、趣味の原動力になっているのではないかと、今までにいろいろな方の話を聞いて感じているのです(今回のアンケートの設問にそのような質問項目も入れれば良かったですね)。十代の頃は金銭的・技術的に出来なくても、大人になってからふと思い出して手を出してみると。でも、十代の頃にナローに興味をもったり感動したりした体験が無い故に、第2時ベビーブーム世代の方々はナロー模型に手を出さないのではないか? あくまでも仮説なのですが、みなさんのご意見を賜りたい次第です。

その4につづく)

*1:長者丸氏と先日の某会合の際にこの話題になって、氏曰く「38歳以下のナローゲージャーは3人しか知らん」との事。ワタシは2人しか知りませんが、その内のお一人は長者丸氏が知っている3人の内に入っていました。つまり二人合わせて4名しか知らないのです。

*2:よく「普通のサラリーマンにも買える」みたいな言い方がありますけど、今や正社員のサラリーマンというのは特権階級になっているのかも・・・

*3:そういえば1970年代はドイツのメルクリン製品が日本で非常に人気があり、普通の16番鉄道模型を置いていないような玩具店でもメルクリンは置いてある店もありました。輸入元の不二商はエンドウに依頼してキハ58の交流三線式(車体はエンドウ製品そのままだが、メカはメルクリンのパーツを使った交流三線式)を生産、発売した程でした。そんな日本でのメルクリン人気が1980年代に入る頃から急速に落ちていったのは、やはりトミックスが登場したからだったのではないでしょうか?

*4:今回の講評では入賞者の年齢を分析しています。何だか既視感を感じます(笑)

*5:珊瑚模型店主催、機芸出版社後援で、方南共同ホールで開催。1978年に第2回が開催

*6:今で言うエコノミータイプ。この当時は「エコノミー」というシリーズ名は使われておらず、「パワーユニットシリーズ」と称していました。1990年以降になって同一のプロトタイプの高級製品がある場合に区別の為に「エコノミータイプ」と付与されるようになりました

*7:いのうえ・こーいち氏率いる「汽車くらぶ」の手になるもの。縮尺が1/87でなく1/80のもその為なのでしょう。当時の広告でコッペル等も出す予定と報じられていましたが、残念ながら実現せず。ちなみにいさみやからはC型ディーゼルを使うナローDLのキットも出ていましたが、こちらは「工房あさがお」製でした

*8:乗工社の歴史について、詳しくは「西南海観光鉄道」さんのサイトにある「探求・乗工社」をご覧になると良いでしょう。¼“ìŠCŠÏŒõ“S“¹

*9:当初は珊瑚を除く各社共に「HO1067」。珊瑚のみ「HOn3-1/2」。その後乗工社レイルマガジン誌は「HO12」と呼称するものの定着せず。1990年に乗工社が国内製品復活した時には「HOj」という呼称になっていました。最近IMONが「HO1067」と呼称してますが、四半世紀を経て結局最初に戻ったという事か?。

*10:賛同とはいっても、そもそも乗工社の母体となった87分署がHOn3-1/2を目指していたのは、1970年代のTMS誌掲載の「ダックスストーリー」や「冬物語」を見ればわかります。また1970年代後半の「ミキスト」欄で「(HOn3-1/2は)ある種の台車から生産に入っており」と報じられており、かなり以前から水面下で準備がされていたと思われます。1990年代に入ってから乗工社からドロップ製のTR-29台車が発売されましたが、当時既に珍しくなっていたドロップ製品なのは、これこそ「ある種の台車」だからなのでは・・・と推察しているのですが・・・

*11:創刊当初のレイルマガジンは実物と模型の両方を扱っていました。

*12:編集後記のような欄に乗工社代表の倉持氏も文を書いていました。

*13:レイルマガジンも初期の号は現在法外なプレミアが付いていますが、逆に言えばそれだけ部数が出ていなかったのではないでしょうか?

*14:ディーゼルはバックマン製品のOEMで、塗装を日本風にして売っていたもの。その後もご本家バックマンでは売られつづけ、動力も全面改良。のちに90年代になって三ツ星商店がトミー製品と同一の塗装色にした言わば復刻版を発売。その後2000年代に入って河合商会から貨車とのセットで発売されています

*15:1980年代半ばは、とれいん誌は1/87 12mmに注力し、TMS誌は登場したばかりのプラ16番の援護射撃に力を入れていた印象があります。KATOがHOユニトラックとDD51と12系客車で16番に参入し、またエンドウがそれまでの金属道床に代わる現行のプラ道床線路システムに切り替えたのがこの頃です。TMS誌は編集部の手になる「Join Us In O-Narrow」と題したOナローの企画記事を連載しましたが、ファンの反応も鈍く、盛り上がる事はありませんでした。

*16:不惑ってやつですな。バカボンのパパマイナス1です