軽便鉄模アンテナ雑記帳

軽便鉄模アンテナ管理人(うかい)の雑記帳です。ナローゲージ鉄道模型の話題が主

新年にTMS新年号を読む・2011

お正月という事で、年末に買っておいた鉄道模型趣味(TMS)誌の1月号を読んでいます。表紙の機関庫の前に蒸機が佇む写真が良いですね〜。表紙をめくると「年の始めは模型から…笑顔を作るカワイの製品」「あけましておめでとうございます-鉄道模型社」、裏表紙にはカラーで「新年おめでとうございます-天賞堂」と、広告もお正月ムード一杯です。
…あれれ、鉄道模型社って大分前に廃業したのではなかったでしたっけ? 
慌てて表紙を見てみると、1月号は1月号でも1964年の1月号ではありませんか! 昭和39年…東京オリンピック東海道新幹線開業の年です。

ご覧の通り、最新の2011年1月号と何となく表紙写真が似ているので間違えてしまいましたよ…と言う訳で、今から47年前の1964年1月号(187号)を読んでいきたいと思います。
表紙写真はTMS編集部撮影による機関庫の風景。機関車は7030と8150で平野和幸氏の作との事。機関庫を始めとするストラクチャーは外国製プラキットを組み立てたものの様で、おそらく編集部で用意したものでしょう。
★一番最初の記事は「鴨鹿本線で開かれた汽笛会10周年運転会」という編集部による記事。会長である宍戸圭一氏のお宅で開かれた会合のレポートです。
何で個人宅で開かれた会合が記事になったのか不思議に思う人もいるでしょうが、集まった汽笛会の面々が、宍戸圭一、二井林一晟、藤井慶一、杉邨好一郎、山本豊、高木彦一、大西友三郎、木村貞治、羽村宏、河田耕一、藤波重次、寺西楽二…と、100号代〜200号代のTMS誌で活躍され、TMS特集シリーズにもその記事が収録されているような方々だった事を知れば納得されるでしょう。関西が日本の鉄道模型文化の中心だったと言っても過言ではない時代があったのです。
★山崎喜陽主筆による「組立式レイアウトのすべて」はこの号が第1回。この記事は後に「レイアウト全書」に収録されたので、そちらでご覧になった方の方が多いでしょう。組立式レイアウトは最近はあまり着目されない感があり、若い方だと「組立式って何?」と思われるかもしれません。この記事で山崎氏は組立式レイアウトが何であるかを以下のように書かれています。

組立分解可能なレイアウトで、分解の最小単位は線路1本であり、一部の延長追加は別として常に一定の線路配置である。

現代のNゲージではユニトラックやファイントラックのような高度な線路システムが存在し、路面軌道から高架線まで自由自在であるのは隔世の感があります。
★「対談 蒸機工作あれこれ」は平野和幸、久保田富弘両氏による7ページに渡る対談。お二方とも16番蒸気機関車のスクラッチビルダーとして高名な方。冒頭の編集部によるまえがきには「TMSギャラリー*1出品作のうち、人気の焦点であったのが東の久保田、西の平野と云うベテランの作品であった」とあります。この頃にTMS誌上に掲載された他の対談と同様、なかなか面白く楽しめる対談です。やはり編集者の手がしっかりと入っている記事だからでしょうか。技法の話だけしているのではなく、普段の模型生活や模型作りにあたっての哲学的な部分にも言及されていて、今読んでも参考になると思います。
一つ興味深かったのが「自分で塗るか」という項。平野さんは「塗装が一番苦手」と言われ、久保田さんは「僕はアキラメてます」として外注に出している旨を述べられてます。この当時は塗料にしても塗装機材にしても満足な物が無かった、あるいは一般には入手出来ない時代であった事も関係するのではないでしょうか?
最後の「一に軸孔、二にロッド」という項で、久保田さんは「それ相応の機構、単純な機構でも図面に書いて、それを忠実に守っていかないと後で必ず困ってきます」、平野さんは「一に軸孔。二にロッド、三にギヤー。最初フレームの軸孔を完全にあけること。それに合わせた完全なロッドを作ること」とアドバイスされています。
★「煙にまかれて30年」は名古屋鉄道模型クラブの湯池氏による発煙装置のリポート。30年間の試行錯誤の思い出話も楽しい記事です。そういえば最近は蒸気機関車の発煙装置を手掛ける人が減った様な…。
★河田耕一氏の「駅をレイアウトする」は後に「シーナリーガイド」に再録された記事で、そちらでご覧になった方も多い筈。今見ても、いや今だからこそ参考になる記事です。
★カラーグラフ「南六甲電軌にて」は、あの高名な「或るレイアウト」を撮影したもの。製作者の彦坂正氏から河村かずふさ氏に譲渡されて改修後「南六甲電軌」と名付けられてから撮影された写真で、表紙以外ではこの号唯一のカラーページです。見開きで2枚の写真が紹介されており、一枚は側線に設置された水銀鉱山のスキップ、もう一枚は水面に白鳥が二羽浮かぶ湖を渡る神戸市電単車400を見下ろしたカット。後者は後に「レイアウト全書」の表紙となった写真です。撮影は編集部の赤井哲朗氏で、目次ページの説明には「同電軌の河村社長もブルーランプを持って協力した苦心作」とあります。
このレイアウトはその後何人かのファンの手を転々とした後、諸星氏らの手でレストアされて2007年及び2008年のJAMコンベンションで展示されましたが、この時に多くの人たちがこの写真と同じアングルで撮影していたのです。この写真がいかに多くの人達の心に残ったかを物語ります。

▲このアングルです(2007年JAMコンベンションにて撮影)
★ナローファン的には「ナロウ・ムードの混合列車」が気になるかも。イーハトーヴォ鉄道の川瀬良一氏による作品で、16番ゲージのホト、ホワ、ト、それにフコハニを名乗るオープンデッキのボギー合造車ミキストです。ホトは福島交通軌道線の物がプロトタイプ。ホワも明言はされていませんが福島あたりにいそうなタイプ、フコハニは北海道官設鉄道の「とちる1」がプロトタイプとの事。7000型蒸機に牽かせる為に作ったそうで、ナロウ・ムードとあるようにナローではなく16番で作ってあります。
記事中には次の様な一節があります。

しかしレールを1本1本スパイクしたり、ポイントを作ったり、車軸を削ったりといった仕事の伴うナロウには、小生のような無精者にはとても向きません。また乗入れる鉄道も大幅に制限されます。といったわけで、この小さなボールドウィンの牽く列車も、いつまでもナロウにはならずに終ることでしょう。桧によく似た翌桧(あすなろう)が明日には桧になろうと云いながら桧にならないように。

この当時、ナローゲージモデルというものがどういう存在だったかをこの一文は良く表しています。日本の軽便鉄模界における黒船・エガーバーンが日本上陸するのは、この記事が掲載された翌年・1965年の事でありました。
★山崎主筆による「ミキスト」欄では、ジェネラルエレクトリックのASTRAC(現代のDCCの先祖的存在の装置)の話題、キットの品質の話題、田中長治氏の訃報とモデルに対する「まじめさ」の話、そしてTTゲージとOOOゲージの話題を取り上げています。OOOゲージは「とりぷるおー」と読み、要するに今のNゲージの事。この頃はまだNゲージという呼称は無かったのです。
やま氏は以下のように記しています。

ヨーロッパのTTが盛んなことはその大部分がハイレールとは云えアメリカの比ではないし、またOOOゲージの進出もイギリスのLone Star社とドイツのArnold Rapido社によって行われつつあり、特に前者は人形を始め各種のアクセサリィも揃え始めたから、同じ小スケールとしてTTとてうっかりはできない。しかしOOOはTTや16番とは異質のモデルと云えよう。

そして…

★ここでゲージの問題を扱う気はないが、今年あたりからそろそろ16番の全盛とは別に新らしい傾向が現われてくるだろう。一つは私達の動向にもかかっているが−。

この年、16番メーカー各社のドロップフォージング部品の下請け工場であった関水金属は、まずTTゲージのC50を試作、続いてNゲージC50を試作し、Nゲージのプラスティック射出成型による量産に向けて設計を進めていくのですが、一般のファンがそれを知るのは、翌1965年のTMS新年号だったのでありました。

関連する記事

*1:TMS編集部が銀座天賞堂で開催した展示会。TMS誌に発表された作品からよりすぐって展示。