軽便鉄模アンテナ雑記帳

軽便鉄模アンテナ管理人(うかい)の雑記帳です。ナローゲージ鉄道模型の話題が主

TMS1978年6月号を再読する

先日この軽便メディアチェックでとりあげた「鉄道模型趣味」(TMS)誌6月号をもう一度読もうと思い、本棚から取り出してきました。
「Nゲージレイアウト大集合!!」「クモハ73系」「自由型電車16輌」。あれあれ、結構いろいろな記事を見落としているなぁ〜。ところではまとんさんのレイアウトの記事がどのページを見ても無いなぁ? はてさて…
…よく見てみれば、6月号は6月号でも31年前の1978年6月号(No.360)ではないですか。というわけでこの31年前のTMS誌を読み直してみたいと思います。
★巻頭は「Nゲージレイアウト大集合!!」と題して、第1回TMSレイアウトコンテストの応募作の中からNゲージレイアウトを集め、その写真を20ページに渡って掲載、本当に「大集合」です。応募された作品で写真が使えるものはほぼ全て掲載したそうですが、それまでTMS誌が30年掛けて蒔き続けてきたレイアウトの種が、いっせいに花開いた瞬間だったのかもしれません。
しかしこの後のミキストでも書かれていますが、Nゲージといえども応募者の年齢層は高いのですよ*1。もちろん以前書いたように10代前半の応募作もあるのですが、30代、40代が最も多い感じ。つまり今(2009年)60代、70代の方たちなのです。そんな訳で「Nゲージャー=若い世代」とは、Nゲージブームであったこの頃であっても必ずしも言えなかったという事であります*2。また、応募されているレイアウトのスペースも結構広いものが多く、「日本の住宅事情では…」って何?という感じです。
★43ページは松井久明氏の「鯨川地方鉄道の車輌たち」。ペーパー自作車体による16番のフリー電車ですが、架空の「鯨川地方鉄道」という地方ローカル私鉄を想定し、各地の実在の地方私鉄の電車をモデルにしながら、いかにもありそうな車輌群を作り上げたもの。この当時は地方ローカル私鉄電車のキットなど存在せず*3、自作するしか無かった時代です。
この「鯨川」の記事のインパクトは凄くて、リアルタイムで読んだ当時はそれこそ記事のフレーズをアタマの中で何度も再生して悦に入っていたものです。同様に影響を受けた方は多い様で、かの宮下洋一氏もこの記事に影響を受けた事を「地鉄電車慕情」の中で述べられていますが、「地鉄」という名称や赤とクリームの塗色はまさに鯨川地鉄の影響ですよね。そもそも、「鉄コレ」だってこの鯨川がなければ出ていなかったかもしれません。鯨川地鉄→湘南交通→武蔵野地鉄(のち中越地鉄)→神奈川電鉄という流れがあって、「自分の模型地方電鉄を作る」という夢を見続けた人が多かったからこそ、Nゲージの鉄コレ(特に第1弾)が受けたのでは?と思うのですが、どうでしょう?
この記事は文章もテンポ良く読ませ、かつ楽しく良い文章だと思うのですが、その点はあまり語られていないですね*4。そうそう、記事の一番最後で「(前略)赤いテールライトを黄昏ににじませながらー。 と片野氏風にせまってみたのですが、どんなもんでしょう。」とオチ?がつけてあるのですが、片野正巳氏の「玉軌道の車輌たち」*5「喃武鉄道の車輛たち」*6という記事があって、架空の路線図や配線図を挿入する手法はそれらがルーツであり、それらにインスパイアされて鯨川が生まれた事が、最後の一文から判ります。
ちなみに作者の松井久明氏はとれいん誌やモデルワーゲンの説明図でお馴染みのパイク仙人こと松井大和氏のお兄さんであります。
★52ページは祖師栄一氏の「軽便の駐泊所」。HOナローのストラクチャーで、骨組みから作られたもので、今の水準で見ても良く出来た作品です。最初のページにある原寸イラストもご本人によるもの。寸法図もある為、ちょっと作ってみたい気になる記事でもあります。ちなみにお名前が「祖師」という事で、祖師谷軽便の橋本真氏のペンネームではないか?と疑った人も結構いた様ですが、違うそうです。
★65ページは表紙にもなっている猪又氏のクモハ73とクハ79富山港線のブルーに塗られた2連で、つぼみ堂の車体を使ってまとめられた作品。つぼみ堂はこの頃廃業したのでしたが、同社の電車の車体はディテールアップすればちゃんと見れるものになる品だったのですよね。富山港線のスカイブルーの73系は、この後も度々作品が発表されましたし、何年か前にはトミックスからNゲージで製品化されました*7。茶色い旧国よりも見栄えがするし、全金改造車+920番台のノーシルノーヘッダーのすっきりした車体が良いんですよね。2両なので作るのにも走らせるのにも手頃ですし。
★68ページからは製品の紹介。トビー模型店のC11改良新製品、ピノチオ模型店のクモハ43車体キットなど。ナローファンの興味をひきそうな品は、中西工房のOナロー木曾森林運材台車乗工社の軽便有蓋緩急車エコーモデルのストラクチャーキットの詰所、ホームと待合室などが紹介されています。
Oナロー運材台車はホワイトメタルやドロップ、ロストを使った高級なキットで、2台一組4800円。この頃はOナローといえば「作りこめるのが魅力」という時代であって、この路線がその後珊瑚、オレンジカンパニーと続いていく訳です。
エコーのストラクチャーキットはこれが一番最初の品で、「ペーパーと木を主材に、ホワイトメタルパーツなどを加えて構成された、まさしく日本風のストラクチャーキットである」と紹介されています。詰所が2500円、ホームと待合室(尾小屋鉄道塩原駅がモデル)が1600円でした。
★86ページは山崎主筆による「ミキスト」で、「レイアウトコンテストで思うこと」。書き出しで「レイアウトコンテストの応募はすさまじく、文字どおり嬉しい悲鳴をあげた」とあり、この第1回レイアウトコンテストの熱気の凄さにやま氏もびっくり状態であった事が伺えます。
ナローゲージャーとしては、以下に引用する部分が興味深いです。

いろいろな考え方があろうが、ナローゲージを採用している人には2種あって、一つは軽便車輌のゲテモノ的な良さ或いはクラシックなナロームードの好きな人、もう一つは小カーブであるために1/80〜1/87のNより更に小さいスペースでレイアウトが出来ることに目をつけた、いわばレイアウト指向のためにナローにした人である。そういう意味では、レイアウト指向という傾向がナローの発展を助長したということになるし、それが意外に年少者さえナローに引きつけられるようになった理由の一つである。

レイアウト指向の為のナローというファンもこの当時多かったですね。もっともJ社パワーユニットの走りの悪さで、挫折したレイアウトファンも多かった訳なのですが。
「Nより更に小さいスペース」という点ですが、この頃はNゲージの小型車輌というのが殆どなく、もちろんBトレも鉄コレも無く…という時代。大体電車だって18m車とか製品化されていなくて、20m車しか無かったんですからね*8
親爺の思い出話はさておき、やま氏は続けて以下の様に書いています。

ついでに言えば、年少のファンがナローを扱うこと、或いはTMS誌上でのナロー関係の割合などを、正統な鉄道模型の行き方ではないと考えて、このことは鉄道模型の将来に悪影響を及ぼすと心配する極く一部のファンがあるようだ。

そういう余計な心配をした「極く一部のファン」って、どなただったんでしょうね?
ミキストの掲載されている88ページの脇に、「On3、O、その他」と大きな文字で書かれた「ナカヤマモデル」の広告があります。私は一度も行った事は無いのですが、この広告は毎号気になっていました。ナカヤマモデルは銀座松屋裏側角にあった模型屋さん。大先輩に聞いた話では1980年代に店仕舞いしてしまったそうですが、この当時にそんなマイナーでマニアックな物を扱っていたとは…。行かれた経験のある方はおられますか?
★というわけで、31年前の6月号の再読でありました。ついこないだのような気がしますが、もう一昔どころか三昔(十年一昔×3)なんですねぇ〜。いやはやなんとも…

(2010/12/12追記)

tadさんが銀座ナカヤマモデルの思い出話をチラリと書かれておられます。興味をもたれた方は以下の記事を是非ご一読を。

*1:応募者の氏名と共に年齢も記載されている

*2:もちろん、ライトユーザーの数で言えば若い層が多かったとは思うのですけどね

*3:ピノチオの箱根登山デハ1がありましたが、普通のローカル私鉄の車輌じゃないですからね。あとは奄美屋の玉電70なんてものも一応ありましたが、最近ヤフオクで画像を見たらほとんどガレージキットみたいな品でした。いずれにしても地方私鉄の電車がキット化されるようになるのは1980年代中頃からです

*4:鯨川にしろ、玉軌道にしろ、必要以上に設定を語り過ぎていないのがミソだと思いますですよ。

*5:1973年10月(No.304)号掲載。のち「ナローゲージブック1」に再録

*6:1974年5月(No.311)号掲載

*7:確か買った記憶があるんですが、どこにしまったんだったっけなぁ…

*8:乗工社の関水DD13下回りを使う小型電車メタルキットがこの直後に出たのですが、Nゲージで本格的な使える小型車が出たのは、1983年のTOMIXのベルニナ号でしょう。現在発売中のRMM誌のNゲージ考古学にも書かれていますが、それより少し前に出たグリーンマックスの小型動力もデリケート過ぎてダメダメで、後にGMTOMIXからベルニナ号の動力ユニットをOEM供給してもらうようになった訳です